顕正会の臨終の相に、判定の基準はありません
証拠と呼ぶのなら、基準があるはずです
結論
顕正会は、臨終の相を成仏の証拠と呼んでいます
証拠と呼ぶのなら、基準があるはずです
ありません
どれくらい白ければ白いのか、どれくらい軽ければ軽いのか、どれくらい柔らかければ柔らかいのか
顕正会の公式サイトにも、過去の指導にも、具体的な基準は見当たりません
基準がなければ、判定は見た人の受け取り方で決まります
そして、どんな臨終の相が出ても顕正会が正しいという結論になるよう、すべての場合に説明が用意されています
つまり、臨終の相をいくら考えても、顕正会をやめる理由がそこから出てくることは永久にありません
顕正会は、臨終の相をどう説明しているか
顕正会の公式サイト、基礎教学書『日蓮大聖人の仏法』の紹介ページに、こう書かれています
そして、具体的な臨終の相について、御書を引いてこう説明されています
整理すると、こうなります
| 色 | 重さ | 硬さ | 表情 | |
|---|---|---|---|---|
| 成仏の相 | 白い | 軽い | 柔らかい | 柔和 |
| 堕獄の相 | 黒い | 重い | 硬い | 恐ろしい形相 |
これは外から持ち込んだ話ではありません
顕正会自身が、臨終の相を証拠と位置づけています
確かめることは、教えに背くことではありません
同じページに、御書のこの一節が引かれています
されば先づ臨終の事を習うて後に他事を習うべし
まず臨終のことを習い、それから他のことを習え、という意味です
証拠だというなら、その証拠を確かめることは、教えに背くことではありません
むしろ、先に習えと言われているほうです
このページは、その確かめをした記録です
基準を尋ねた記録
現役の顕正会員と、臨終の相について話す機会がありました
その方は、こう言いました
総幹部会で知人が臨終の登壇をした
実際に私も葬儀に行って、臨終の相を見てきた
そこで、ひとつだけ尋ねました
「成仏したとされる、白さの基準は何ですか」
返ってきた答えです
- 白さは、葬儀の中で自分で見た
- 軽さと柔らかさは、登壇をした知人の顕正会員から聞いたので、信じる
- 成仏にも、上・中・下がある
誠実に答えてくださいました
ただ、尋ねたことへの答えには、まだ届いていません
白さの境目は、どこか
そこで、堕獄の相の黒から成仏の相の白までを10段階に分けた見本をお見せして、尋ねました
顕正会の説明では、堕獄の相は黒く、成仏の相は白いとされています その境目がどこなのかを尋ねるための見本です 軽さと柔らかさについても、同じことが尋ねられます
「どの番号からが、成仏の相ですか」
はじめの答えは、質問の答えではなく、論点をずらしたものでした
繰り返し尋ねたところ、ようやく具体的な答えが返ってきました
1〜5は、白ではない
基準について、初めて具体的な答えが出た場面です
ただし、「6からが成仏の相だ」とは言われませんでした
もし6番、灰色がかったベージュからが成仏の相だとすると、顕正会員ではない方の中にも、当てはまる方がたくさんいることになります
基準の範囲が広いほど、顕正会に特有の証拠とは言いにくくなります
軽さと柔らかさも、同じです
この見本は、わかりやすさのために色だけを取り出したものです
臨終の相は、色だけではありません
軽さも、柔らかさも、同じように証拠とされています
そこで、そちらも尋ねました
- 軽さは、生前の体重より、どれくらいまで減ると軽いと言えるのですか 80パーセントですか、50パーセントですか、20パーセントですか
- 柔らかさは、何が柔らかい状態のことですか 肉体そのものですか、骨の関節ですか、両方ですか
- その肉体の柔らかさは、こんにゃくくらいですか、粘土くらいですか
色だけの話ではないことを確かめるためです
この時点でも、答えは返ってきませんでした
最後の答え
白さ・軽さ・柔らかさの基準が「ある」のか「ない」のかを、改めて尋ねました
基準についての指導は聞いたことが無い
基準はない、と認めていただきました
ここで、ひとつ疑問が残ります
基準がないのなら、白いかどうかの判断は見る人によって変わるのではないか、ということです
これを尋ねたところ、こう答えられました
人の感じ方次第とはならない、真実は一つ
そこで、もう一度具体的に尋ねました
先ほどの見本で、6番は成仏の相なのかそうでないのか、顕正会の公式な見解として成仏の相は何番からなのか、と
最後の答えです
分からない
忙しいので、もう対応できない
「分からない」「ない」と答えてくださったことには、感謝しています
分からないことを分からないと言えるのは、ごまかしではなく、確かめる姿勢だと思うからです
上・中・下は、成仏の相の段階の話ではありません
「成仏にも上・中・下がある」という答えについて、確かめました
この言葉は、指導の中にあります
御書のこの一節が引かれる場面です
此の道に入りぬる人にも、上中下の三根はあれども、同じく一生の内に顕すなり
そこでの説明は、上根の人は聞いてすぐに、中根の人は一日から一年ほどで、下根の人は臨終のときに至って、それぞれ悟りを現すというものです
つまり、上・中・下は悟りが現れる時期の違いです
臨終の相の白さや軽さに段階がある、という話ではありません
そして、上・中・下のどの人も、同じように一生のうちに成仏の悟りを現す、という内容です
基準を尋ねている場面で、時期の話が出てきたことになります
もし本当に成仏の相に上・中・下があるのなら、そこにも基準が要ります
上根と呼べる成仏の相、中根と呼べる成仏の相、下根と呼べる成仏の相を、どうやって見分けるのか
根拠が、聞いた話になっています
答えを並べ直すと、ひとつの形が見えてきます
| 内容 | 根拠 |
|---|---|
| 白さ | 自分で見た |
| 軽さ | 登壇した知人から聞いた |
| 柔らかさ | 登壇した知人から聞いた |
| 成仏に上・中・下がある | 他の会員から聞いた |
自分で確かめたのは、白さだけです
しかもその白さに、基準はありません
人から聞いた感想を信じることが信心の証拠だというなら、宗門や創価学会の方々が語る体験も、顕正会員は同じように信心の証拠とするのが道理です
では、あなたは何を見て、成仏したと判断したのですか
基準がわからないのであれば、臨終の相から成仏したかどうかを判断できる人は、誰もいません
それでも、登壇を聞いて感激したことがあるはずです
何を見て、そう判断したのでしょうか
素晴らしい臨終の相でした
まさに御書に仰せのとおりの、透き通るような白さ
重さを感じないほどの軽さ
手に持てないほどの柔らかさ
壇上でこう語られるのを、聞いた
それだけではないでしょうか
その白さを、あなたは見ていません
その軽さを、あなたは確かめていません
その柔らかさに、あなたは触れていません
見ていないものを、見たことにしています
これは、登壇した人も同じかもしれません
壇上で語った方は、その軽さを自分で持ち上げて確かめたでしょうか
その柔らかさに、自分で触れたでしょうか
白さにしても、どこからが成仏の相なのかを知らないまま「白かった」と語っているのなら、
その方もまた、基準を持たずに判断したことになります
嘘をついているという話ではありません
確かめた人が、どこにもいないという話です
このページの後ろに、実際にそう話してくれた幹部のことを書いています
はっきりしているのは、ひとつだけです
証拠と呼ばれているものを、基準をもって判断できた人は、誰もいません
臨終の相は、いつ見たものですか
もうひとつ、基準に必要なものがあります
人が亡くなったあと、体には時間とともに変化が起こります
- 死斑 死後まもなく、下になっている側の皮膚に色が集まりはじめ、15時間ほどで固まります 逆に上を向いている面は血が引いて、白く見えるようになります
- 死後硬直 いったんゆるんだあと硬直が始まり、死後6〜8時間ほどで全身に及び、20時間ほどで最も強くなります その後ゆるみ、通常は3〜4日で完全にゆるみます
いずれも気温、体格、亡くなった原因によって大きく変わります
つまり、同じご遺体でも、いつ見るかで色も硬さも違って見えます
証拠とするのなら、死後どれくらいの時点で見た臨終の相なのかが必ず要ります
登壇でも、指導でも、その時刻が語られるのを聞いたことがあるでしょうか
どんな臨終の相が出ても、説明が用意されています
ここからが、いちばん大事なところです
臨終の相で起こりうることは、4通りしかありません
| 顕正会員 | 顕正会員以外(未活動者を含む) | |
|---|---|---|
| 臨終の相が良い | ① 信心が正しかった証明 | ③ 説明が用意されている |
| 臨終の相が悪い | ② 説明が用意されている | ④ 謗法の罰 |
①と④は、そのまま登壇で取り上げられます
では、②と③はどうなっているか
あなたも聞いたことがあるはずです
4つのマスすべてに、答えが用意されています
どの臨終の相を見ても、結論は「顕正会が正しい」にたどり着いてしまいます
これは、臨終の相に関係なく、結論が決められているということです
顕正会自身の言葉と並べてみてください
しかし仏法は空理・空論ではない。すべて証拠を以て論ずる。
何を観測しても「顕正会が正しい」との同じ結論になるものは、証拠ではありません
証拠とは、違う結果が出たときに結論が変わりうるもののことです
つまり臨終の相は、顕正会の正しさを証明するものではありません
顕正会の正しさを語るために使われる材料になっています
説明を聞いたら、こう尋ねてください
どれも、「はい」か「いいえ」か、具体的な答えで返せる質問です
1がとくに効きます
答えようとすると、道は3つしかありません
- 顕正会員ではなかったから極悪人だと分かる → それなら、臨終の相を見る前から結論が出ています 臨終の相は証拠ではなく、結論の後付けです
- 臨終の相から分かる → その臨終の相は穏やかでした その臨終の相から極悪人だと読めるのなら、同じ臨終の相が成仏の証拠でもあり、極悪人の証拠でもあることになります
- 生前の行いから分かる → それなら臨終の相は要りません そして、どの行いからどう判定したのか、同じ基準を顕正会員にも当てるのか、が残ります
3つとも、行き止まりです
「何事にも例外はある」と言われたら
そのとおりかもしれません
例外はあるものです
ただ、そうだとすると、確かめることがひとつあります
顕正会員に成仏の相が現れた場合について、「例外かもしれない」と考えたことはありますか
ないはずです
例外が本当にあるのなら、そちらにも同じだけあるはずです
| 顕正会員 | 顕正会員以外(未活動者を含む) | |
|---|---|---|
| 臨終の相が良い | ① 例外とは言われない | ③ 例外が持ち出される |
| 臨終の相が悪い | ② 例外が持ち出される | ④ 例外とは言われない |
例外は、②と③にしか現れません
結論に合わない場合にだけ現れるものを、例外とは言いません
私が聞いた話
知人の幹部が、総幹部会で臨終の登壇をしました
登壇では、顔全体が白くなってありがたい臨終だったと語られていました
後日、世間話のなかで、その方がこう話してくれました
よくよく考えてみると、はじめは臨終の相が土気色だったのが
顔全体が白くなったのではなく、鼻先から額が白っぽくなってきたように思っただけだったかもしれない
その知人幹部は、いまも変わらず顕正会に連なっています
責めたいのではありません
人の死を見送る場面で、後から思い返すと記憶の印象が変わることは、誰にでもあります
ただ、こうした受け止め方の揺れが、登壇では「白くなった」とはっきりした形で語られるということは、知っておいてよいと思います
次の登壇を聞くときに
答えを急ぐ必要はありません
次に臨終の登壇を聞くとき、心の中でこの4つを確かめてみてください
- 成仏したとされる臨終の相に、基準は示されていたか
- 成仏したかどうかを、誰が、どうやって確かめたのか
- 顕正会員で臨終の相が良くなかった例は、どうなっているのか
- あなた自身は、どう思うか
その先をどうするかは、あなたが決めることです
よくある質問
Q. 私は実際に、白い臨終の相を見ました
見たという経験そのものを否定していません
問題は、それを成仏の証拠だと言えるかです
言えるためには、どこからが成仏の相なのかという基準が要ります
その基準は示されていません
そして、基準がないまま「白かった」と判断したのであれば、それはあなたの受け取り方です
受け取り方を否定しているのではなく、証拠と呼べるかどうかの話をしています
Q. 疑うことは、謗法になりませんか
顕正会が引いている御書には、こうあります
されば先づ臨終の事を習うて後に他事を習うべし
まず臨終のことを習え、と書かれています
習うというのは、確かめることを含みます
証拠と呼ばれているものの中身を尋ねることは、謗法ではありません
なお、基準を尋ねたときに返ってくる言葉として、こういうものがあります
- 誹謗すると罪障を積むからマズイよ
- 口を慎まないとね
- 粗探しに見える
- 頭でっかちにならず、まず勤行をしたほうがいい
どれも、質問の中身についての答えではありません
質問したという行為のほうをたしなめる言葉です
質問の中身に答えられるなら、答えが返ってくるはずです
Q. 基準がないからといって、間違いだとは言えないのではないですか
そのとおりです
このページは、臨終の相そのものが間違いだとは書いていません
書いているのは、次の3つです
- 顕正会は臨終の相を証拠と呼んでいる
- 証拠と呼ぶのなら、基準と確認方法が要る
- その基準は、示されていない
証拠として扱えるかどうかの話であって、信心そのものの話ではありません
Q. この話は、体験発表と同じですか
同じ構造です
良い結果だけが選ばれて語られ、そうでない例は語られない
そして、語られない例には、あらかじめ説明が用意されている
顕正会の体験発表は、なぜ全部同じ話に聞こえるのかで、同じ4つのマスを使って説明しています
次に読む同じ仕組みは体験発表にもあります